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橋下さんのTV発言

橋下さんがかって『たかじんのそこまで言って委員会』で発言した、
山口県光市の母子殺害事件の弁護団に関した発言は、実際に番組で聞いていた。

そのことで大量の懲戒請求を受けた弁護団が損害賠償を求めた裁判の判決が出た。
そして、橋下さんに800万円の支払いが命じられた。

朝日の社説は、いかにも朝日らしい社説を載せている。

橋下さんは、テレビのインタビューですっきりと謝りアタマを下げた。
彼のこんな謝り方は、なかなかいい。 これは運動部の謝り方である。
注意されたら兎に角頭を下げる。何にもないのに人が注意をしたりはしないのである。
悪いところがあるから上は怒るのである。 すべてが悪いわけではない。

しかし、怒られたら素直に謝る。 みんな、なかなかこれが出来ないのである。


それなのに控訴する。
おかしいではないかと思われるかも知れぬがが、
この話は誤らねばならぬ部分と、もう一度他の方の意見も聞いてみたいという部分が混在しているように思う。
橋下さんは、そのアタマを下げねばならぬ部分についてテレビの前で、謝ったのだと思う。


世の中の普通の人は、あの弁護団は『ケシカラン』と思っている人が大部分なのだろう。
 だから、あんなに沢山の懲戒請求が行われたのだろう。
ただ、マスコミのテレビという媒体を使ってと言われれば、『それもそうだ』と思うところもある。

裁判の判決のためにいろいろな方面からの検討がなされるのだろうが、
なかなかそんな難しいことはよく解らない。
こんな裁判が、若し新しい裁判制度の中で行われたら、どんなことになるのだろうか。

懲戒請求をした人は『ケシカラン』と思い、確かに弁護団は『ケシカラン』のだが、
『そのやり方』をテレビで教え煽動したのは『ケシカラン』というのであろうか。


いろいろと、難しいことである。
しかし、どう考えても、あの弁護団を応援する気持ちにはなれない。
『ケシカラン』一団であると思っている。

朝日の言う『弁護士資格の返上』は、あの弁護団の人たちにして欲しいと思うのである。
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コメント

なだいなだ『人間、この非人間的なもの』[ケシカラニズム考]より。※ケシカラニズムは、なだ氏の造語です。

「ケシカランというのは、個人の感情としては、怒りにむすびついています。しかし、個人の怒りが、防衛本能
に結びついていて、自分が他人によって傷つけられ、いためつけられることによって生まれ、そこまで押しこめ
られていた攻撃性の蓋をとることになるのに対して、ケシカラン感情は、それにどう結びつくのでしょう。
 自分はなにも傷つけられていない。傷つけられて怒っているのは他人。その怒りを見て、「それがどうした」と
いっていらられれば、自分とその男の間には、なんのつながりもありません。もし、その男の怒りの対象に対し
て、自分もケシカランという感情を持つことができれば、そこにケシカラニズムによる人間間の連帯が生まれま
す。その男の怒りの対象に、ケシカランと思う第三者たち同志も、それによって結びつけられるのです。
その点では、ケシカラン感情は、社会正義の感覚の出発点をなしているのだといえます。自分の知らぬ、第三者
と第三者との間の争いを傍観することができなくなり、どちらかの立場へと立たせるもの、それがケシカラン感
情であり、その時の自分の行動を正当化するものとして、社会正義が必要とされるのです。もし「それがどうし
た」とつぶやいていたら、そこには社会正義は生まれないでしょう。
しかし、このケシカラニズムと理性的社会正義の感覚とが混同されてはなりません。ケシカラニズムは、いいか
えれば理性的正義ではなく、感情的正義であり、瞬間の正義であるといえるでしょう。ケシカラニズムが、感情
といううつろいやすいものに結びついているのに対して、理性的社会正義はより永続的なものに固定されていま
す。
そもそも、怒りと、それに対する報復とは孤独な人間の行動のパターンでしょうが、それが、社会的なひろがり
を持つことで、法の原形は生まれたのでした。法は、報復を形式化し、個人的な報復行動を公的なもので代行さ
せることでなりたったのです。こうして、‘個人の行動の社会化が行われるにともなって、感情の社会化が行わ
れ’、怒りは、ケシカランに変り、社会化された報復行動を支持する、社会正義へと変形していったのです。
私たちは、民衆の社会正義感覚にもとづいた連帯に、ケシカラニズムの基盤があることを認めねばなりません。
それは、感覚的正義であり瞬間的正義であり、純粋正義であるので、民衆運動の原点だといえます。しかし、同
時に、それこそが、私たちをファシズムへ参加させる危険を持つものでもあるのです。社会正義的感覚のみじか
さが、持続のなさが、その原因なのですが、過去において、ケシカラニズム的な日常感覚が、ナチズムにどれだ
け味方したかを考えれば、これからもよほど注意しなければならないでしょう。」

Unknown

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